今日で東日本大震災より丸7年が経過しました。
私は震災当時、仙台東部道路の名取IC付近に仕事でいました。
携帯の緊急地震速報のアラームと車のラジオからの
「安全な場所に避難してください」
との言葉で車を急停止させ、レバーをパーキングに入れサイドブレーキを引いて止まったのですが、あまりにも強い揺れと長く続くので走るわけがないのにブレーキを強く踏み続けていました。
目の前の信号が突然赤の点滅に代わり、そのまま消灯しました。停電したのでしょう。
しばらくして揺れが収まってからゆっくりと走り出し、本当は仕事でそのまま塩釜に向かわなければならなかったので、閖上方面から海岸線を行こうとしてました。
閖上大橋まで行くと信号が止まっているので、五差路が大渋滞で左折して橋を渡ろうとしたところ大型トレーラーのおっちゃんから
「通行止めで行けねぇぞ!」
と言われました。
が、渋滞しているためどこにも行けなかったので、ふと空いている港方面に進みました。大橋が通れないなら戻って4号線から行くしかないと。
商店街なのか住宅街なのか通り抜けてUターンできる場所を探していく途中、魚屋さん?のショーケースか何かのガラスが割れて道路に散乱していたのを掃除している人や、
おそらく誰も住んでいない古い家の中の段ボールに入った荷物が地震の揺れで外壁を突き破って道路に雪崩のように飛び出ていたり。。。
そんな中をすり抜けてちょっとしたスペースを見つけUターンをし、同じ道を戻りましたが、やはり信号が止まっているので、どこもかしこも渋滞を起こしてました。
ふと気が付くと地震時になっていたラジオが止まってて、何も情報を得ることができず、途中携帯で電話をしたがつながらないので、とりあえず事務所に戻ろうと思いそのまま4号線を目指しました。
とにかく多少遠回りでも前に進むように道を色々変えながら1時間前後の時間をかかってやっと東部道路を抜けたと思います。
普段ならその辺から事務所までは20分程度で行ける距離なのに事務所には1時間半かかって戻りました。その時ふと携帯にテレビがついているのを思い出してつけてみると「大津波が起こり、荒浜・閖上で200~300の…」との言葉に絶句しました…
今の今までいた場所で、何が起きたのか信じられませんでした。仙台空港に津波が流れ込む映像や沿岸部の映像など、何のことやら状況を飲み込めませんでした。
ふと自分が巻き込まれていたらどうなっていたのか、
なぜ自分は助かったのか、
生死を分けたのは何だったのか、
今では普段通りの生活をしていて、あまり当時を思い出すこともなくなってきたのですが、震災のこの日が来るたびに、この時の状況を思い出されます。
これが風化というものなのかなと思い、今回私自身も忘れたくないのでここに備忘録のようなつもりで書き込みました。
改めてお亡くなりになられた方の、ご冥福をお祈りいたしますとともに、一人でも多くの行方不明の方がご家族のもとに帰られるよう願っております。
これを読んでいただいた方が、改めて思い出していただければ幸いです。
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